日本の秘密兵器


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 旧陸軍の秘密機関、登戸研究所で開発された秘密兵器の資料などが、明治大学平和教育登戸研究所資料館で展示されているそうだ。
終戦直前に進められた秘密兵器の開発の実態などを伝える企画展「NOBORITO1945 登戸研究所70年前の真実」が、明治大学平和教育登戸研究所資料館(川崎市多摩区)で開かれている。
 放火兵器の可能性がある樹脂製の棒などが新たに見つかり、公開されている。
 登戸研究所では、風船爆弾、生物・化学兵器などの兵器開発や偽札製造の研究が行われた。1945年頃になると、米軍の本土上陸を想定したゲリラ戦用の新兵器開発などに力が注がれたとされる。
 樹脂製の棒は、長野県駒ヶ根市の神社周辺に住む住民が保管していた。この神社内では、45年春に同市に疎開した登戸研究所が、放火を目的とした焼夷(しょうい)剤を製造していた時期があるという。
 棒は2本あり、1本は長さ約1メートル、直径約1・5センチ。中央が空洞になっており、「空洞に芯を通して点火するゲリラ戦用の放火謀略兵器か、焼夷剤の着火部品」(同資料館)の可能性が考えられるという。登戸研究所終戦直後に証拠隠滅が図られ、現存する開発兵器は少ない。放火兵器なら極めて珍しいという。
 また、今年7月に研究者の遺族から寄贈された大型風船爆弾の写真も展示されている。
 アメリカ大陸に向け飛ばされた風船爆弾は直径10メートルの大きさで、偏西風がやむ4月以降は使用できなかった。このため、年間を通して飛ばせる直径15メートルの大型風船の研究が進められたと言われている。
 写真のほか、研究者の手記やイラスト付きメモも寄贈された。実際に「直径15メートル」が研究されたことを示す史料を同資料館が入手したのは初めて。同展は来年3月26日まで。(2015年08月08日 YOMIURI ONLINE)』(http://www.yomiuri.co.jp/national/20150808-OYT1T50071.html
 興味深い。。。


 放火兵器じゃなくて、直径15メートルの大型風船爆弾の方。
 風船爆弾を大型にすると何故、年間を通して飛ばせるのか?
 記事では説明不足なのでジェット気流について調べてみると『冬季には寒帯前線ジェット気流と亜熱帯ジェット気流が合流する日本付近とアメリカ大陸東部では風速は30m/sぐらいで中には100m/s近くに達することもあるが、夏期はその半分程度の風速に弱まる()』と書いてあった。
 つまり、夏場は風の速度が遅いため、小型風船では途中でガスが抜けてしまい米国まで到達しないが、大型にしてガス容量を増やせば滞空時間が延びるので米国まで届く。そういう事ではないかと理解した。
 別の記事によると、この風船爆弾の実用化には、コンニャクが重要な役割を果たしたそうだ。
『太平洋戦争末期に約9300発が打ち上げられた旧陸軍の秘密兵器「風船爆弾」。紙の歴史や機能から風船爆弾について考える講演会が、四国中央市妻鳥町の県紙産業技術センターであった。NPO機能紙研究会(同市)の小林良生(よしなり)顧問(80)が「コンニャク」が果たした意外な役割などを解説した。【松倉展人】
 風船爆弾四国中央市など全国の和紙生産地で勤労動員の女学生らの手で製造されたもので、コウゾを原料とする和紙をコンニャクのりで貼り合わせた直径約10メートルの風船に、爆弾をぶらさげたもの。1944年11月から45年4月にかけ、偏西風に乗せて米国に放たれた。
 秘密兵器のため、風船爆弾に関する資料は敗戦時に多くが処分された。しかし小林さんは同市の製紙業界に残っていた資料などを基に全容解明を進めた。
 講演では、コンニャクのりに含まれる水分が、和紙の植物繊維の主成分・セルロースとなじんで「水の壁」を作り、風船に注入された水素を外に漏らさない役割を果たしたことなどを紹介。「風船爆弾は、全国各地の110校もの女学校の生徒が失敗に失敗を重ねて完成させた。米軍はコンニャクになじみがなかったため、風船を調べても水素が漏れない理由が分からなかった」と明かしたうえで、「兵器の材料になったという意味では、和紙の歴史上、一番の“事件”だった」と述べた。
 小林さんは旧通産省四国工業技術研究所化繊紙研究室長として化学繊維から紙を作る研究に従事した。講演は「四国中央紙フォーラム」(実行委主催)の一環で行われた。(2015年08月01日 毎日新聞地方版)』(http://mainichi.jp/area/ehime/news/20150801ddlk38040596000c.html
 風船爆弾については、殆ど戦果がなく、戦後日本の左翼的な風潮の中で、バカの見本のような言われ方をして来た。今でも、そういう風潮が無いと言えない。


 しかし私は全然そうは思わないのである。
 風船爆弾は非常に画期的な兵器システムで、当時の米国は深刻な脅威を感じていた(http://matome.naver.jp/odai/2141618390777143201?page=2)。
 それは米国が、沖縄に送る筈だった戦闘機中隊の幾つかを、急遽引き抜いて米本土防空部隊を編成したことでも分かる(「疫病最終戦争」p.61-62)。
 風船爆弾はレーダーに映りにくく発見が難しい。それが音もなく侵入してくる。従って米国は防空のために絶えず哨戒機を飛ばさねばならなかった(当時、米国では長い海岸線を見張る北米防空予算に、風船爆弾の開発費以上の予算が必要となった)。
 それに対して風船爆弾の製造コストは極めて安く、また無人兵器であり、しかも重要な戦略物資を殆ど使わないで製造できたのだ。
 そんなものをボンボン飛ばされては大変なことになる・・・そう、アメリカ人は思ったのである(http://matome.naver.jp/odai/2141709001375406801)。
 そう考えると、ハラスメント爆撃として見做すなら、風船爆弾による攻撃は大変に成功したものと言えるだろう。それは最初から大量破壊を意図せずに、ゲリラ的に心理的打撃を与える事を目的とした攻撃だったからである(風船爆弾は主として山火事を起こすことを目的とした人道的兵器である)。
 米国は国際法を無視した方法で日本を滅茶苦茶に攻撃し、恐るべき攻撃努力によって完膚なきまでに日本の産業を叩きつぶした。日本国土は焦土と化した。


 にも関わらず、大日本帝国は戦争の最後の瞬間まで、産業資源や戦略物資を大量に使わなくても、殆ど家内工業的な手段により、主に女子学生を活用するだけで米本土を直接攻撃する能力を有していたのである。
 つまりこれは、米国が日本の占領政策を誤れば(皇室の排除をする等)、何年にも渡り、日本のゲリラ勢力から風船爆弾によるハラスメント攻撃を持続的に受け続ける可能性すらあることを米首脳部に想像させるものだった(例えば、中東では米軍がIEDによる攻撃に悩まされたが、あれは設置場所が紛争地に局限されているから許容できる訳で、もし米国内で何回も使用されたら政治的に大変なことになるだろう)。
 圧倒的優勢で勝利しているにも関わらず、尚、そういう得体の知れない恐怖感を米国首脳に与えた国は、後にも先にも、日本以外には無かったのである(神風特攻や玉砕など、日本人の行動が彼らの理解を超えていた事も、恐怖心の理由だった)。
 それ故に、米国は日本が降伏してから後も、日本人を精神的に徹底して完全解体する必要があると考えたのだ(WGIP)。
 そうして作られたのが、戦後日本なのである。
 我が国は、その気になれば、何時でも風船爆弾を飛ばせる国であることを、絶対忘れずに覚えているべきだろう。勿論、もう飛ばさないけどね。。。


<陸軍登戸研究所“秘密戦”の世界   単行本>


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