やばい(危ない)状況!


↑↑↑始めにクリックよろしくお願いします!
 国語が乱れていると思う人の割合が減少傾向にあるという。
『「国語が乱れている」と思う人が、減っているとの調査結果が公表された。
 文化庁が、16歳以上の男女およそ2,000人から回答を得た調査によると、「いいか悪いかの判断がつかない」ときに、「微妙」と言うことがある人は66.2%、「素晴らしい」という意味で「やばい」と言うことがある人は26.9%など、本来とは違う使い方をする人が、10年前の調査より増えた。
 一方、今の国語が乱れていると「思う」人は73.2%で、この設問を始めた1999年度の85.8%から毎回、減少傾向にある。(09/18 FNN)』(http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00303367.html
 何故「やばい」が「素晴らしい」の意味になったのか?


 それは恐らく、世代によって状況解釈に齟齬が生じ、上の世代が「やばい(危ない)!」と口にするような状況が、下の世代には「やばい(素晴らしい)!」と感じられる状況に思えたという事なのだ。そこで、コードが誤変換され、違った意味として言葉が受け渡された。
 では、なんでそうなったの?
 考えられるのは、規範意識の差である。
 大体、30代より上くらいの世代までは、少なくとも規範は「守らねばならない絶対的なもの」として教育された(規範を守ることは立派である)。ところが、その下の世代になると、個性化教育や、ゆとり教育などの影響で、恐らく「規範を守ること=下らないこと、詰まらないこと」と理解される状況になったのだ。
 それで、上の世代が規範を逸脱するような時、ネガティブな意味で「やばい(危ない)!」という言葉を使っていたのに、それを受け取る若い人達は「規範を破る=かっこいい!」という文脈で理解してしまい、ポジティブに「やばい(素晴らしい)!」と受け取るようになったのではないか。
 即ち、状況把握の大きなパーセプション・ギャップ(認識のずれ)が、世代間で存在したということ。
 これには注意が必要だ。
 最近の若者は、意味も良く分からずに反体制に傾く傾向があると感じる。それは恐らく、規範を守るということを嫌悪するような心情から来ているのだろう。集団的な規範の中に自己を埋没させ、その中で承認を得て行くプロセスを体験していないのだ。今の若者は、教育現場で、個人個人、見捨てられたようにバラバラに育てられて来た。
 そうやって集団体験が不足していることが、社会への怒りを生み、不適応を生み、ニートや反体制を生み、ご皇室や伝統への反発みたいなものまで生みだしている。


 これを改善するには、教育の中に、しっかりとした集団行動のプロセスを組み込むことが大事である。
 幼稚園や小学校の頃から、集団体育競技や分列行進などを繰り返しさせて、小隊行動、中隊行動が整然と出来るようにならなければならない。集団行動の中に自己を埋没させ、皆と同じ行動がとれるよう日々努力させる(必ずしも出来なくてよいが意識が大事)。その中で自分を認めてもらい、評価された時のうれしさ、楽しさ、自分は孤独ではないという感覚を体得させる。一体感。そうした体験を経て、日本人は皆、一つの大きな家族なんだ、という実感を込めた認識に至るように子供たちを方向付けなければならない。
 そうすれば、小さな争い、つまらない競争、馬鹿げた敵意や、陰湿ないじめなどは自然と無くなる。
 もっとも、私の様に集団行動がずっと苦手だと、苦労する事も多いから、嫌な思いをすることも沢山ある。しかし、集団行動の規範が共有されていれば、ひたむきに努力すれば誰かが助けてくれるという確信が持てる。人間不信にならず、絶対的な孤独には至らない。そこが大切なのだ。
 いまの学校教育は、滅茶苦茶に間違っている。
 個人の尊重とか、型に嵌めるのは駄目とか言って、皆をバラバラにして孤独にさせ、互いに敵対させて競争させている。
 それが個性化教育?、正しい教育なの?、教育者は本当に真剣に考えて見てほしい。
 もう一度、学校の中で、集団行動を重視する厳格な伝統的規範教育を取り戻すべきだ。
「規範を守る事は素晴らしい!」、戦前戦後、長い間、それが日本の強さの秘密だった筈。何でその社会の強みを「グローバル化」とかアメリカにそそのかされて簡単に捨てるかね?、文科省は馬鹿じゃない?
 社会の規範と伝統を守れ!

 
<「集団主義」という錯覚―日本人論の思い違いとその由来    単行本>


<日本人は大きな家族です!、クリック宜しくお願いします。 m(_ _)m>

人気ブログランキングへ


(リンク)
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5959.html