死刑廃止の背後にあるもの


↑↑↑始めにクリックよろしくお願いします!
 マスコミをウオッチしていると、最近、どうやらマスコミが死刑を話題にしたがっているという方向性が見える。死刑関係のニュースが大きく取り上げられているのだ。多分、死刑廃止の動きを作りたいのではないか。色んな勢力が死刑廃止を訴えているが、中でも最大のものはキリスト教系勢力のようだ。以下、ネットで拾った過去記事より。
『世界のキリスト教カトリック信徒約13億人を率いるフランシスコ・ローマ法王は21日、バチカンのサンピエトロ広場で開いた日曜恒例の祈りの集いで、世界における死刑全廃に向けての取り組みの強化を呼びかけた。
 法王は、カトリック団体「聖エジディオ共同体」が22日からローマで開く国際会議「死刑のない世界に向けて」の成功を祈願。「(モーセ十戒にある)[殺してはならない]は絶対的な価値を持っており、無実の人にも、有罪の者にもあてはまる」と述べた。
 さらに、死刑廃止世論の高まりを踏まえ「現代社会では、犯罪者から罪を償う機会を奪わなくとも、犯罪を効果的に抑止することができる」と指摘。「犯罪者にも不可侵の生命権がある」として「統治者の良心に向けて、死刑廃止の国際合意に達するよう呼びかける」と訴えた。
 そのうえで、少なくともカトリックの宗教期間「いつくしみの特別聖年」(今年11月20日まで)の間、死刑執行が停止されるようカトリック信徒の政治家に「勇気ある模範的な行動」を要請した。
 世界的な廃止運動の広がりと歩調を合わせ、バチカンは死刑「抑止」から「廃止」にかじを切ってきた。歴代法王の中でも特にフランシスコ法王は死刑廃止を熱心に唱えている。(毎日新聞 2016年2月22日)』(http://mainichi.jp/articles/20160222/k00/00e/030/176000c
 何故、キリスト教は死刑反対なのだろう?


 想像だが、恐らくキリスト教徒の場合、全ての行動は神が決めているという考え方があるからだろう。世界の全ての出来事は、神によって決定されている・・・、となれば、殺人などの犯罪もまた、神が命じた結果ということになるから・・・。
 実際、聖書の中には、多数の殺人が出て来る(聖書の中で人を一番殺してるのは誰なの? 意外なグラフに欧米人の反応は…)。神は残酷だ。
 じゃあ、キリスト教は殺人を肯定しているのだろうか?
 と言えば、勿論そんなことは無い。そこで出て来るのが「罪」の概念である。キリスト教に於いて、殺人は最も重い罪の一つとされている。
 しかしキリスト教の中では、神に目覚めていない者が、神の導きを得て、聖書の言葉の意味を真に理解して自分の罪に気が付き、深く反省するようになる・・・というプロセスが重視されているのだ。その過程で罪を認め、懺悔し、深く神に帰依すれば、たとえ罪を犯したとしても、全ての罪は赦されると考える(懺悔について)。
 だから、キリスト教死刑廃止なのだろう。罪を認め、悔い改め、神が赦した者を殺す訳にはいかないから。


 しかし、これはあくまで宗教の中での話である。それを普遍的な倫理のようには見做せないだろう。
 死刑廃止論者は、世界で死刑廃止の国は多く、死刑廃止が国際的な趨勢になっているかのように語る。けれども、短絡してはならない。死刑廃止国の多くの国はキリスト教の国なのだ。前記のような教義に基づく、文化的な理由で死刑廃止なのである。国民全員が、キリスト教の考え方になっているから、成り立つ事なのだ。
 例えば、イスラム教の国の場合なら、死刑廃止にしている国は少ないと思う(インドネシア、麻薬関連犯の死刑執行を加速する方針)。罪に対する捉え方が全く違うからだ。
 日本は、キリスト教の国では無い。多分、日本人はキリスト教の考え方より、もっと潔癖を求める。犯罪者に優しくない。何故なのか上手く説明できないが、恐らく、日本には神が沢山いるから、一人の神が許しても、他の神が許さないのだろう。
 日本に於いて、殺人などの「罪」は、謝って反省すれば済むという問題では無いのである。それは神がやった事ではなく、自分がやった事になるからだ。

 


<日本での死刑廃止に反対!、クリック宜しくお願いします。 m(_ _)m>

人気ブログランキングへ


(リンク)
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-6266.html