戦争は「絶対悪」ではない


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 全ての戦争は絶対悪・・・この主張は、日本のマスコミ、メディアにおいて、人気がある考え方だ。けれども、これを個人に置き換えてみれば、全ての暴力は絶対悪、と言っているようなものだ。
 もし暴力が絶対悪であったら、警察は犯罪者をどのように取り締まれるだろうか?
 言葉で取り締まるのか?、裁判や法律で解決・・・という馬鹿なことを言う人が居るが、犯罪者は裁判の結果にも、法律にも、従わないから犯罪者なのだ。
 人類の長い歴史の中で、様々な戦争が起きた。けれども、それら戦争を行った人々には、その戦争を行うだけの、やむにやまれぬ思いがあった。だから戦争が起きたのである。
 警察官が、大きな不正が行われつつある場に偶然立ち合わせた場合、その不正が行われるのをただ眺めている事が良い行動だろうか?
 警察官は、不正を自ら妨害すべきであろう。そして、不正の妨害は、場合によっては暴力によってしか、なし得ない場合があるだろう。
 そのような事例が、一例でもあるならば、論理的に全ての暴力は絶対悪、などとは言えない。
 全ての戦争は絶対悪ということにも、同様の誤謬がある。戦後民主主義は、お題目として戦争は絶対悪という念仏を唱えてきた。そして、その念仏を正当化する為の論理をずっと考え、信じ続けてきた。
 だが念仏は念仏に過ぎない。
 戦争は絶対悪と言い続ける限り、戦争によってしか解決しえない様々な非道・不幸と、それに関する自らの道義的責任から目を背けて生きることしかできなくなる。
 つまりテロリストの要望に屈して犯罪を黙認する、自国民が他国に拉致されても何もできない・・・そういうことになるのだ。
 戦争の善悪を論じる以前に、人には道義というものがある。例えば、嘘をついて人を騙したり、人を家畜のように扱ったりすることは道義的に許されない。大切なのは、その行為の道義的正当性であって、戦争は行為の結果、手段に過ぎない。
 戦争は悪だ、というのは、例えば刃物は危険だから悪だ、と言うようなものだ。確かに刃物は危険だが、刃物無しで人は生活できるのか?
 道義的に戦争以外の手段で解決することは難しい、そう判断した時に、国家が戦争行為を選択することは、許されなければならない。
 それを許さないのが、日本の戦後民主主義であった。
 戦争は悪・・・そう信じさせられた日本国民は、先の戦争の体験を一億総懺悔して扱う事しかできなくなった。兵士は「悪」の戦争をした事を謝罪することしかできなくなった。
「戦争は絶対悪。」
「戦争は絶対悪。」
「戦争は絶対悪。」
 もの心ついた頃から、カルト宗教の様な徹底的な洗脳・・・。
 だが、戦争は悪ではない!
 国家が国家としての責任を全うするために、戦争以外、まともな選択肢が無い。そうした時には必要となるものだ。
 戦争は猟奇殺人のようなものではない。文明社会における戦争の精神は、紳士がフェアに行うゲームのようにルールを重んじる。先の戦争で、日本人は武士道精神を持ってフェアに戦った。戦争法規も可能な限り順守して戦った。
 しかし敵の策略により、あたかも戦争法規を無視した悪の集団のように、日本人および日本軍は貶められた。
 日本人は負けた以上、弁解はしない。武士の潔さで耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んだ。
 今、黙って死んでいった彼らにかわりに言おう。
 戦争は悪ではない。旧日本軍も、勿論、悪の軍隊などでは絶対に無いのだ。



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