有り得ない南京大虐殺


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 南京攻略戦に参加した兵士によると「婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていた」そうだ。憲兵が配置されていて略奪や強姦など出来なかったという。
『昭和12年12月の南京攻略戦をめぐる東京裁判の判決は、旧日本軍が残虐の限りを尽くしたと断定した。
 日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。まるで野蛮人の一団のように放たれ、何の規律もなく、多くの兵は酔っていた。何ら口実もないのに中国人男女や子供を殺害し、死体は大通りに散乱、幼い少女や老女も含めて強姦(ごうかん)事件を起こし、射殺しては多くの住宅から略奪品を運び去った…。
 これが真実ならば、規律と統制を失った集団の、見るに堪えない不法行為の数々である。だが、元将兵の証言によると攻略後の城内は虐殺とはほど遠い平穏さがあった。加えて、軍には厳しい規律があったとの証言もある。
「私だけでなく戦友や日本軍の名誉にもかかわる。悔しい思いをしました」
 元陸軍第16師団歩兵第20連隊伍長の橋本光治(99)は、身に覚えのない「虐殺者」の汚名を着せられたことに、今も怒りを禁じ得ない。
 昭和62年から平成元年にかけて、橋本の部下だった元上等兵らが出版した3冊の本の中で、橋本は「中国人を郵便袋の中に入れ、ガソリンをかけて火をつけ、手榴(しゅりゅう)弾を袋のひもに結びつけて沼の中にほうり込んだ」と描写された。
 橋本は名誉毀損(きそん)で元上等兵らを訴え、「客観的証拠もなく、真実とは認めるに足りない」として、1審から最高裁までいずれも橋本勝訴の判決が下った。そもそも、当時の郵便袋の大きさでは、成人男性を到底入れることはできなかった。
「戦争中も軍紀は守られていた。そんな残虐行為ができるわけがない」
 橋本は昭和12年12月13日に南京入りし、23日まで城内外の敗残兵の掃討に参加した。翌月下旬に南京を離れるまで、1度だけ長江(揚子江)河畔の下関という場所で、捕虜となった中国人の男が使役されているのを目撃したが、一般住民の姿は見かけていない。
「婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていたし、夜間外出は禁止され、任務以外に自由な時間はありませんでした」
 橋本は日本の司法制度のもと、名誉を回復することができた。しかし、東京裁判は、元将兵にとって「身に覚えのない蛮行」の数々を断罪、弁護側の反論は一切聞き入れられなかった。
 判決では「攻略後最初の2、3日で1万2千人の殺害」という検察側の証言だけを採用した理由には触れられず、「1カ月間で2万の強姦」も数字の明確な根拠が示されなかった。
 こうした「不法行為」の多くが行われたという城内の「安全区」で、将兵はどう振る舞ったのか。軍は細心の注意を払っていたという証言がある。
「安全区の掃討には厳重な命令がありました」
 南京戦に参加した元将兵らが集まり平成19年に東京で開かれた「南京陥落70年国民の集い 参戦勇士の語る[南京事件]の真実」で、元第9師団歩兵第7連隊伍長、喜多留治=当時(89歳)=はそう話した。
 安全区では、軍服を脱ぎ捨てて民間人になりすました便衣兵の掃討が、南京城陥落直後の昭和12年12月14日から始まり、喜多はこれに参加。安全区の警備も担当した。住民に十分配慮することや、掃討では将校の指揮に必ず従うことを命じられたという。
 掃討は同じ師団の金沢と富山の連隊が担当し、他部隊が安全区に入らないよう「金沢」「富山」という合言葉まで使っていた。喜多は略奪や強姦は「ありえないことです」と語った。
 南京攻略戦に参加した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣(じょうこうせん)(98)も軍紀で思い出すことは多い。
 城は日米開戦後の昭和17年末に南方作戦に参加するまでの5年間の大半を中国戦線で過ごした。その間、城らは中国人の集落に駐留することもあった。日本軍と住民を分けるため集落の中央に線を引き、住民側に一歩も入ってはならないと厳命された。
憲兵がおりますけん、違反はできんし、われわれも絶対にせんかった。軍紀はそれほど厳しかったとです」
 東京裁判で弁護側は南京攻略戦はほかの戦場と変わりなかったと反論している。城も中国戦線で軍の規律が一様に保たれていたと強調した。
 ではなぜ、南京での「残虐性」がここまで突出するのか。城は「おかしかことですたい」と言って、ため息をついた。(敬称略)(2015.2.17 産経ニュース)』(http://www.sankei.com/life/news/150217/lif1502170003-n1.html
 南京攻略戦で日本軍の秩序は維持されていた。


 当時、日本軍は大陸で無敵の強さを誇っていた。
 その理由は、日本兵が命令に従うよう訓練されていて、近代的な軍隊としての形を持っていたからだ。これに対し、当時の支那兵は、ロクに訓練もされておらず、山賊と変わらないレベルだった。従って、日本軍は支那兵を簡単に蹴散らす事が出来た。
 旧日本軍に於いて、命令は絶対である。
 命令も無しに兵士が勝手な行動をすれば懲罰の対象になった。鉄拳制裁を受けたし、軍法に違反すれば銃殺も有り得た。
 兵士が戦場で掠奪したり強姦したりすれば、最高刑は無期懲役である(http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/siryo/siryo05.html)。
 特に南京攻略戦に於いては、攻略戦を指揮した松井大将が、南京は中国の首都であり、外国の特派員も多数おり、万が一にも民間人などを巻き込むことがあったら、それは世界中に打電されるとして、全軍に注意を促す訓令を出していた。
 実際、その頃の南京市ではロイターやAPなど海外の報道機関が活動していた。しかし南京攻略に際して日本軍の大虐殺があったとの報道は一つもない(http://www.history.gr.jp/nanking/reason14.html)。外国の特派員も居たのに大虐殺など見ていないのである。
 大虐殺の話は、戦後になって出て来た話なのだ。東京裁判の為に作られたデッチアゲ事件である(http://www.senyu-ren.jp/MAGO/13.HTM)。
 当時の日本軍は山賊ではなかったし、支那兵みたいに敗走の最中にあった訳でも無かった。南京攻略戦時、日本軍の近代的な組織は完璧に機能していた。
 そのような状態で、日本軍の兵士が無秩序に略奪したり、或いは虐殺したりするなど、考えられない話なのだ。

 
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